名もなき花よ、

水をやろう。

 

美しく咲いて

 

やがて枯れいく為に

 






――――――――――――ネムノキ





「ああっ!!くそぉっ!!!」

男は手に持った大量の紙のカードを、地面に叩きつけた。

その男はタカハシといった。ひげがずいぶん伸びているが顔立ちは若い。

まだ、20代半ばぐらいだろうと見受けられた。

たった今、競馬の予想が大はずれし、それに比例して大損をしたところだ。

ひらひらと風で舞い上がるカードを忌々しげに踏みつけ、足音も荒く競馬場を去った。

(ちくしょうちくしょう!!俺の何が悪いってんだよ!)

ポケットに手を突っ込み、わずかな小銭をかき出すと、そばにあった酒の自販機に乱暴につっこんだ。

自動販売機が金を飲み込むわずかな時間さえも待ちきれないらしく、壊さんばかりにボタンを押し続けている。

やがて、下の透明のカバー越しに商品が落ちてくるのが見えた。

それを引っつかむとさっそく開封し、ぐっとあおった。口からはみ出した液体を適当にぬぐうと、歩き出した。

パチンコ店にでも行ってひと勝負するか…とぼんやり思いながら歩いていると、

裏路地からいきなり車が飛び出してきて、彼の目の前を横切って行った。

驚いたタカハシは、思わず酒を落としてしまった。

「気をつけろこの野郎っ!!」

車に罵声をあびせた後、足元を見やる。地面に、まだ半分ほど残っていた酒が染み込んでいく。

「ちくしょう」

タカハシは、酒の空き缶を踏み潰した。それは、彼の怒りを微塵も治めなかったが。

「なんでこう、上手くいかねぇんだよ…!!」



タカハシは、あまり容量のいい人間ではなかった。

勉強もあまりできなかったし、結局進学に5回失敗して諦めた。

働こうとするが、失敗を重ねてリストラされてばかり。

要するに、“運が悪い”という部類に入るのだった。

そうして重なった『不幸』は彼を押しつぶすには十分な効力で、

タカハシは自分は誰よりも不幸でダメな人間だと思い込み、

アルコール中毒になるわ、麻薬をするわ、賭博に入り浸るわの廃人に成り下がっていた。

借金を返すあてもないし、親もとっくに彼を見離していた。

周りには味方は誰も居らず、しかも借金の取立てに追われ、野宿する毎日。人間不信にも陥っていた。

心は濁り、体は麻薬と酒と煙草に蝕まれ、タカハシは生への執着心も消えかけていた。



酒が回り、ふらつく足取りで行きつけのパチンコ店の前についた。

自動ドアの前に立ち、開くのを待った。ふと上を見上げると、はらはらと花びらが落ちてきた。

周りには、木どころか草すらない。奇妙に思いながらもタカハシはパチンコ店へ足を踏み入れた。

とたん、中から突風が吹きつけ、タカハシは思わず目を覆う。その突風は、花びらを乗せていた。



タカハシが目を開けたとき、そこは騒音のする賭博場ではなかった。

むしろ正反対の、写生でもするようなさまざまな植物が咲き乱れる温室だった。

天井がひどく高く、ガラス張りのその向こうには鉛色の空が広がっている。

暗い光源で照らされているその温室は、うっそうとしていて、ある意味人工のジャングルのようだ。

そのジャングルの中心には、樹齢何年かわからない巨大な木が生えている。

それは高く伸び、はるか上にある天井を支えているかのようにみえる。

そしてさらに上まで伸び、天井の向こう側の空を欲しているかのように、枝がガラスに貼り付いていた。

「どこだよ、ここは…?」

不意に、後ろで草を揺らす足音がした。

はっとして振り返ると、そこには少女が立っていた。

緑ばかりのその温室で少女はひたすらに白く、異様なほどに存在が浮き立って見えた。

少女の顔には何の表情もなく、ただモノでも見ているかのようにタカハシを見下ろしている。

整った顔立ちは、笑えばこの温室にあるどの花よりも美しいだろうに、無表情だとかえって不気味だった。

「ようこそ」

幼い顔には似つかわしくない長身を優美に折り曲げ、少女は礼をした。

「だ、誰だよお前…ここは一体どこだよ」

タカハシは少し焦ってはいたが、あまり危機感を含まない声音でその少女に問うた。

「あなたがここに来られたという事は、ここに来る資格があったということなのです。」

少女は、無表情に見当外れの回答をタカハシにくれた。

「そんなこと聞いてねぇよ。」

タカハシは首だけ少女に向けていたのをやめ、体ごと向き合う。

彼は背の低いほうでもなかったが、それでも少女の顔は上のほうにあった。

「ここに来る資格が?はっ、俺には何の資格もねぇよ。

 天国に行く資格も、地獄に落ちる資格も。あるのは死ぬ資格だけだ」

「いいえ、もうひとつあります。」

少女は、真っ直ぐにタカハシを見た。それだけで相手を射抜く蛇のような目だった。

「幸せになる資格、です」

タカハシは弾かれたように笑った。おかしくて、おかしくて、膝をついて腹を抱えて笑った。

「ははははっ!!なんだよそれ!お前は理想ばかりを語る政治家か?夢だけ並べた憲法か?

 幸せになる資格だと?だったら、俺はこんな事してねぇよ!!」

タカハシは袖を捲り上げる。そこには、無数の注射針の後。麻薬を打った跡だ。

手首には、大量のリストカットの跡があった。

「精神が弱えって言うか?馬鹿だって思うか?だけどな、俺にはどうしようもなかったんだよ!」

タカハシは、いつもより饒舌になっていた。人間不信の彼は、他人と会話をすることがほとんどなかった。

だが今、この少女なら何もかもぶちまけてもいいとなぜかそう思ったのだ。

「俺には力がなかったんだ!何かをする能力がなかった!!

 弱い奴はなぁ、てめぇを責める事ぐらいしかできねぇんだよっ!!」

タカハシは魂から叫んだ。喉が痛くなるほど叫んだのは何年ぶりだろうか。

感情を爆発させたのは何時以来だろうか。

「俺だって、俺だって…人並みに生きてぇよ…毎日楽しいとかおもいてぇよぉ…っ」

地面に手までつき、うつむくタカハシの顔を覗き込むように少女はしゃがみこんだ。

「そうでしょう?幸せになりたくないなんて事はないでしょう?」

タカハシはさらにうつむくようにうなずく。涙が、頬を流れた。

「あなたには幸せになる資格と、願望がある。だから、ここに来られたのです。」

少女は、手のひらを上にして握った手をタカハシに差し出した。タカハシは、潤む視界でそれを見る。

開いた少女の手の上には、シルクのカバーのついた懐中時計があった。

カバーは白色で、フワフワした花とそれの葉が刺繍されている。金色の鎖もついていて、上品なつくりだ。

「これは…?」

「あなたに差し上げます。幸せになれますように」

少女は目を瞑って手を組み、その上に軽く形のいい顎を乗せた。

そのとたん光が爆ぜ、タカハシの視界を塗りつぶし―――






「ん…?」

タカハシは目を開けた。そこは、見慣れたパチンコ店の店内だった。

出て行く客が、立ち尽くすタカハシに邪魔だといわんばかりに肩をぶつけてすれ違っていく。

いつもなら殴らんばかりの勢いで怒声を吐くのに、呆然とタカハシは店内を見回す。

「何だったんだ…今の…?」

「お客様、どうかなさいましたか?」

アルバイト店員が寄ってきてタカハシに声をかけた。その声で我にかえったタカハシは、

「なんでもねぇよ」と短く言い、適当な台の前に座った。

そのとき、ポケットでじゃら、という音がした。

「?」

騒音が飛び交う場所で、彼はなぜかそんな微かな金属音がはっきりと聞き取れた。

タカハシはそんな事はあまり気にせず、ポケットを探った。手に当たったのは、細い鎖。

それを掴み引っ張ると、でてきたのはシルクのカバーのついた懐中時計だった。

驚いて、タカハシは取り落としそうになった。まじまじと見やる。

紛うことなくそれはあの少女がくれたものだった。

「何だったんだ…ホントに…あれは夢じゃないのか…?」

わけがわからない頭を整理しようと深呼吸をし、懐中時計をいったんポケットに戻した。その時、

「おい」

肩を叩かれた。振り返ると、サングラスをつけ煙草を咥えた男と、髪を金色に染めた男が背後に居た。

「やっと見つけたぜ。ちょっと来てもらおうか」

サングラスをかけた男から、強引に襟首をつかまれ席を立たされると、引きずるようにタカハシは外に出される。

それでも男たちの足は止まらず、人気のない裏路地まで連れて行かれた。

「離せよっ!」

タカハシは力ずくで男の手を振り払う。

今日はわけのわからないことづくめだちくしょう、とタカハシは思いながら、

2人の男と距離をとり、睨んだ。どちらも見たことのない顔だった。

「なんだよ、何の用だよ。胸くそ悪ぃ」

「胸くそ悪ぃのはこっちだよ兄ちゃん」

サングラスをかけた男は、煙草をはき捨てた。

「あんたの借金をさっさと返してもらおうと思ってなぁ。100万貸してからもう3年もたつだろうが。

 請求しようもんなら、あんたは姿をくらます。そうやって随分時間がたっちまってなぁ。もう待てねぇんだ」

サングラスの男は、容姿とは違い優しい声で男に話す。

だがタカハシはわかった。声と腹のうちは真逆だということを。

「そのことか。金ならねぇよ。わかんだろ?」

「ああ、わかる。わかるけどな、これは約束だ。約束は守ってもらわなきゃ困るだろう?ん?」

「守ろうにも金はねぇよ。無理だ」

「あんた、優しく言ってるうちに言う事聞いたほうが身のためだぞ?あ?」

ぺりぺりと男の声音の仮面が剥がれていく。

タカハシはボリボリと頭をかき、ため息をつく。何もかもがどうでもよかった。

男の声の仮面がはがれるように、タカハシの本性も頭角を現しだした。

「無理だっつってんだろ。てめぇ耳ねぇのか」

刹那、襟首をつかまれた。持ち上げられて、つま先立ちになる。

「ああ?無理だと?どんだけ待ったと思ってんだよ!」

頬に衝撃が走った。軽くはないのに、タカハシの体は横に吹っ飛ぶ。コンクリートの壁にぶつかり、頭をぶった。

(殴られたのか)

タカハシはまるで他人事のように思考した。くらくらする目線の先にあの懐中時計が落ちている。

こめかみに、血が流れて、口の中に鉄の味が広がった。男たちの罵声が、遠のいていく。




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騒音が飛び交っている。目の前にはパチンコ台。隣の客が、今日はついてねぇなとぼやいた。

辺りを見回す。そこは、当然にパチンコ店だった。手には、あの懐中時計が乗っている。

「うわぁっ!」

気味が悪くて、タカハシはそれを落としてしまった。床に転がったそれは蓋が開き、中をあらわにした。

普通、懐中時計は時計が蓋ではないほうにひとつあるだけだ。

デジタル時計のように、ストップウォッチ機能やタイマー機能などはなく、

単に時間を見るためだけのモノだからだ。

だが、この時計は変わっていた。

蓋の裏に、もうひとつ時計が付いているのだ。

しかしそれは指針はひとつしかなく、文字盤は本来12時であるべき所の0から始まり、

細かい目盛りがぐるりと1周して最後は240で終わっていた。

時計というより、体重計のようなものに近い。

その指針は、0から微妙にずれてひとつの目盛りを指している。

指針の軸にのった小さな水晶玉に『15』と書いてあった。

タカハシはそれをおそるおそる持ち上げる。

「何の時計なんだ、これは…?」

「おい」

タカハシは肩を叩かれた。ぎくりとして振り返ると案の定あの男たちが居た。

「やっと見つけたぜ。ちょっと来てもらおうか」

タカハシは襟首をつかまれ、席を立たされる。

(何だこれ…さっきと同じ…?)

それから、人気のない所に連れ出され、全く同じ事を言う男たちに殴られ、

またタカハシの記憶が飛んだ。




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騒音が飛び交っている。目の前にはパチンコ台。隣の客が、今日はついてねぇなとぼやいた。

辺りを見回す。そこは、当然にパチンコ店だった。手には、あの懐中時計が乗っている。

「…。」

さすがにタカハシも気持ちの悪さの限界を超え、パチンコなんてするどころではなかった。

立ち上がってふと通路の先を見ると、あの男たちが写真片手に店の客達を見回している。

タカハシはさっと顔を背けると、男たちから離れた出口から出て、足早にパチンコ屋をあとにした。





「一体なんだってんだ…これ…」

タカハシは競輪場のベンチに座り、懐中時計をもてあそびながらぼんやりと考え込んでいた。

何だかんだありながらも、賭博をやめられないのがタカハシだった。

開始10分前には立ち上がり、予想した番号の券を金が無いくせに大量に買った。

サイフは空になったが、勝てばなんとかなるという適当な考えで再び観客席に戻る。

結果は、大負け。

タカハシは同じように券を叩きつけ、ついでに自分の座っていた椅子も殴った。

怒りまかせだったせいか、プラスチック製の椅子の背もたれはひび割れ、タカハシの手を切り裂いた。

赤い血が、手の甲から流れた。





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目の前で、自分の買った番号の選手がビリでゴールを切った。

わぁぁぁぁぁぁっ!!という歓声と、悔しそうに券を投げ捨てる客。

つい、5分前の出来事だ。

「まただ…また繰り返して…」

わけのわからないまま辺りを見回し、ふと目線を降ろすと、手にはあの懐中時計。

蓋を開けると、蓋の裏の時計の指針が微妙にずれ、指針の軸の水晶には「5」と書かれてある。

「…まさか…」

タカハシは、自分の親指を噛み切った。わずかに切れた場所から、血が流れた。





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目の前で、自分の買った番号の選手がビリでゴールを切った。

わぁぁぁぁぁぁっ!!という歓声と、悔しそうに券を投げ捨てる客。

「やっぱりな」

タカハシは目の前の手のひらに乗った時計を見た。蓋を開けた。

蓋の裏の時計の指針は微妙にずれ、軸の上の水晶には「5」と書いてある。

「これは、血を流すたび時間を元に戻してくれるわけだ…!」

タカハシは時計を握り締め、ニヤリと笑った。

それから、自分の腕に噛み付くと、そのまま肉を食いちぎった。どろどろと結構な量の血が流れた。





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まばらに客が座っている観客席に、タカハシは居た。

手のひらに乗った時計を開くと、蓋の裏の時計の針は0と1の間を指し、水晶には「30」と書いてあった。

サイフを見ると、まだ金が入っている。券もまだ勝っていない。

「へっ、何だかしらねぇが便利なもんを手に入れたぜ」

タカハシはニヤリといやらしく笑うと、勝つ予定の番号をサイフの金が許す限り買い込んだ。

30分後、タカハシのサイフは膨れあがっていた。




何回か時計を使い、タカハシはいくつかのことがわかった。

血の流した量が多ければ多いほど、長い時間を戻せる。

時間が戻ったとき、必ず手の上に時計がある。

蓋の裏の時計は、戻った時間の量を指している。


時計のしくみを理解したタカハシは、こうして、タカハシはかなりの勢いで賭博で金を稼いでいった。

生活は一変し、今まででは考えられない豪華なホテルに宿泊できるようになったし、女と遊ぶ金もできた。

借金は利子まで完済し、働かなくても好条件で暮らしていけるようになった。

「働くなんてめんどくせぇ。好きなことだけやってりゃいい」

タカハシは手触りの良い高級な革のコートのポケットに入った時計を握る。

相変わらず、心地良いシルクのカバーの感触。

「これさえあれば、俺は幸せでやってける!」

タカハシは喉の奥で笑う。

だが人格が豹変しても、時計のことを誰かに言うことはなかった。





ある日のこと、タカハシの泊まっている高級ホテルの部屋に、何者かが訪ねてきた。

夜も更けた結構な時間だった。

大あくびをしながら、気だるくドアを開けると、そこには記憶にある顔があった。

頭の中で模索すれば、それは学生時代の友人だった。

当時はよくつるんで悪い事を結構やったが、卒業して以来全く音沙汰のなかった人物だ。

かつての友人は、顔がやつれ、タカハシとは正反対のみずぼらしいかっこをしている。

「お前、確かナカノだったか?」

「ああ、タカハシ。久しぶりだな」

ナカノという人物は、やつれた顔を少しだけほころばせた。

「何の用だ」

めんどくさそうにタカハシが言うや否や、ナカノは廊下にばっと土下座した。

「頼む!!金を貸してくれ!!」

「はぁ?」

「お前金持ってるだろ?!ちょっとでいい!

 100万、いや50万でいい!!貸してくれ!!この通りだ頼むっ!!」

タカハシは、表情一つ変えず、冷たくナカノを見下ろしている。

その心の中で、ある感情が鎌首をもたげつつあった。

「俺の恋人が事故にあって…!凄い難しい手術をしなきゃならないんだ…っ

 それで、金、金がかなりかかるらしいんだ…っ!!」

ナカノは、床に額をすりつける。がんがんと頭を床に打ち付ける。

「こんな廃人みたいな俺でも…好きになってくれた大事な人なんだっ!!頼む!!失いたくねぇんだよ…!!」

彼の流した涙が、廊下に引かれた赤いじゅうたんを紅に染めていく。

「それで?」

タカハシはあざ笑い、床に額を押し付けるナカノの頭の上に足を乗せた。

「俺とお前は友達だから…そのよしみで金を貸せ…ってか?あぁ?」

ナカノの頭の上に乗せた足に力がこもる。ナカノは呻いた。悔しさと、落胆の入り混じった声で。

「都合のいい話もあったもんだぜ。俺はなぁ、お前と別れてからボロボロだったよ。

 何もかも失った。何もなかった。そのときお前は俺に何かしてくれたかよ?あぁ?

 俺が世界に絶望してるとき、お前はどうせその女とヨロシクしてたんだろぁ?

 てめぇの幸せしか考えてねかっただろ?」

タカハシは足を下ろした。ナカノは、涙と鼻水にまみれた顔を上げた。

「俺はゼロから、ここまで来たんだ。さっきも言っただろ?俺はすべて失った。

 家も、金も、夢も、未来も、…友人も。」

ナカノは、全てを断ち切られた表情をした。奈落の底に突き落とされたような顔だった。

「だから、俺にはお前という友人なんて存在しない」

タカハシは、くくく、と狂気のさ中のような笑い声を漏らした。

「いい様だな。お前も、絶望しろ」

タカハシはドアを閉めた。ばたん、という軽い音が、ナカノの中に重く響いた。

「待って…待ってくれよタカハシぃ!!お願いだ!!頼むよぉ…っ!!!」

ナカノはしばらくドアを叩いていたが、やがてそれをやめると、ズルズルとドアの下にうずくまる。

「ちくしょう…っ」

床に伏せて見えないその顔は、絶望の色に染まっていた。





一週間後。

タカハシはそんな出来事をすっかり忘れた頃だった。その日は、朝から雨が降っていた。

夜7時、タクシーから降り、釣りはいらないと1番大きな札を運転手に投げ渡し、

恋人の待つホテルの部屋へ向かおうと、ホテルの玄関に入ろうとした。

「タカハシっ!!」

突然に自分を呼ぶ声がした。タカハシはあたりを見回す。その姿は容易に見つけられた。

雨の中、傘も持たずずぶ濡れになっている男。

ホテルの窓から微かにもれる光で照らされたその顔は、一週間前に数年ぶりに会った人物…ナカノだった。

よろよろとおぼつかない足取りでタカハシに近付いてくる。なぜか、ズルズルと何かを引きずるような音がした。

タカハシは無視をしてホテルに入ろうと背を向け、足を踏み出す。

「俺の恋人は、死んだよ」

その背中に声が飛んだ。タカハシは眉一つ動かさず歩き続ける。

おぼつかない足取りと、何かを引きずる音はまだ追いかけてくるようだ。

「お前のせいだ…お前が少しでも…少しでも金を貸してくれれば」

タカハシは全く反応せず、上の階へ行くためのエレベーターに乗り込み、ボタンを押そうと振り返った。

目の前にナカノがいた。その手には金属バットが握られており、しかもそれを高く振り上げていた。

「俺の恋人は死なずにすんだんだっ!!」

怒りと重力が上乗せされた重量の金属バットが、タカハシの頭めがけて振り下ろされた。

「…!」

頭に衝撃が走る。頭蓋骨が砕け脳に刺さり、頭皮を突き破る。血が吹き出た。

タカハシは気を失い、噴水のように飛び散る血が、エレベーターの密室とナカノの体を真紅に染めた。





−−−−。

−−。

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タカハシはタクシーに乗っていた。

窓の外に街の夜景が流れていき、窓に張り付いた雨粒が窓から滑り落ちていく。

ポケットの中の時計を開くと、蓋の裏の指針が「1」の目盛りを指している。

「1時間…だと?」

タカハシは首を捻る。あれはどう考えても致死量の血だ。

今まで動脈を切り大量出血をして3日ほど戻ったことがたびたびあったのに、今回は1時間しか戻っていない。

疑問に思いながらも、タクシー運転手に行き先の変更を伝える。Uターンをして別のホテルへの道を選んだ。

ケータイで恋人に今日は会えないと電話をし、一息をつく。

「恋人が死んだのは俺のせい…だと?笑わせるな」

タカハシは窓の外に目を這わせた。さまざまな色のネオンが、傘が、高速で通り過ぎていく。

「自分で何もできなかったのを、俺のせいにするんじゃねぇよ。社会の負け犬が」



1時間後、別のホテルの前に到着した。

釣りは要らないと言いつつ、運転手に1番大きな札を投げやり、

雨に濡れないため、足早にホテルの入り口に急ぐ。

時間が時間だ。早くチェックインしないと部屋がなくなるかもしれない…と思いながら駆けた。

「タカハシっ!」

自分を呼ぶ声。まさかと思いあたりを見回すと、思いがけない人物がいた。

雨にずぶ濡れの男。手には――先ほどは気がつかなかったが――鈍く光る金属バット。

紛れもなくそれはナカノだった。

「お前…どうして…」

このホテルは、行くはずだったホテルから6キロ以上は離れているのだ。

「俺の恋人は、死んだよ」

それなのに、全く同じセリフをはき、

「お前のせいだ…お前が少しでも…少しでも金を貸してくれれば」

同じようにおぼつかない足取りで、タカハシに近付いてくる。

「何でだよ…お前なんでここが…!」

「俺の恋人は死なずにすんだんだ!!」

ナカノの振りかぶったバットが、垂直に振り下ろされる。

タカハシはそれの直撃を受け、倒れる。頭から血が噴き出し、闇色に染まった道路とナカノをさらに色濃く染めた。




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−−。

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タカハシはタクシーに乗っていた。

窓の外に街の夜景が流れていき、窓に張り付いた雨粒が窓から滑り落ちていく。

ポケットの中の時計を開くと、蓋の裏の指針が「1」の目盛りを指している。

「何でだよ…!!」

場所が変わった。それなのに、予定は変わらない。

急いでタクシー運転手に行き場所を変更させ、恋人に連絡を入れる。

今度は、恋人のホテルからも、さっきのホテルからも十分に離れた場所だ。



「タカハシっ!」

タクシーから降りたタカハシに、同じ声がかかる。

タカハシは姿を探さずに、ホテルとは反対の方向に疾走した。雨が顔にかかり、視界をさえぎる。

「何でだよ…なんで変わらないんだっっ!!」

「お前のせいだ…お前のせいだ…っ!!!」

恨みに色取られた声が、足音が、ズルズルと引きずられる鈍器の音が、追ってくる。

「くそっ!!」

タカハシは、走りながら考えた。

(1時間前ではダメだ。もっと前へと戻らなくては。)

そのためには、もっと大量の出血が必要だ。タカハシは赤信号の光る横断歩道に飛び出し、

猛スピードでやってくるトラックの前に立ちはだかった。

ぎょっとする運転手の顔。

急ブレーキで止まろうとするタイヤの擦れる音と、それを邪魔するずぶ濡れの道路の音。

車のライトが迫る。

タカハシの体は、ゴミくずのように宙に舞った。




−−−−。

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タカハシはタクシーに乗っていた。窓の外に街の夜景が流れていき、

窓に張り付いた雨粒が窓から滑り落ちていく。

ポケットの中の時計を開くと、蓋の裏の指針が「1」の目盛りを指している。

「なんでだよ!!何でだよちくしょうっ!!!」

タカハシは悔し紛れに車のシートに頭をぶつける。

「お、お客さん??急にどうしたんです?!」

「降ろせ!!今すぐここから降ろせ!!」

タカハシは悲鳴のような声で叫んだ。

「は、はい!」

わけのわからない運転手はそれでも車道の脇に車を止めた。

タカハシはサイフごと運転手に投げやると、転がるように車を降りた。

その瞬間。

「タカハシっ!」

何度も聞いた声が、彼の名を呼んだ。

「ひぃっ!!」

タカハシは反射的に駆け出した。同じように、声の主、ナカノも駆け出す。

「お前のせいだ…お前のせいだ…っ!!」

「何でだよ何でだよ何でだよっ!!」

顔にかかる雨を必死にぬぐい、タカハシは夜の街を駆けた。

無理矢理道路を横切り、繁華街を通り、ベットタウンを抜け、闇雲に“予定”から逃げた。

それでもなお、後ろの足音は消えない。着実に、確実に未来は彼に牙をむく。

(もっと…もっと過去に戻らなくては…!そうだ、一週間前に戻って、ヤツに金を貸せば…!!)

タカハシは雨なのか涙なのかわからないもので顔を濡らしながら、無我夢中で走った。

(もっと、もっと血を…もっと血を…!!!)

あたりを探りながら走るうち、街の外れにきたようだった。空き地が広がり、雑草が生え茂る。

雨のせいで整備されていない地面はぬかるみ、泥になっていた。

それに足をとられながら、タカハシは必死で駆けた。そのタカハシの目に、巨大な給水タンクが目に入った。

タカハシは靴を脱ぎ捨て、給水タンクのはしごに飛びついた。足を何度もすべらせながら、我を忘れて登る。

ひゅうひゅうと言う息遣いが、激しくなってきた雨の中、嫌にはっきりと聞こえた。

「お前のせいだ…お前のせいだ…」

ナカノも、同じようにはしごを上ってくる。夜の闇の中、嫌にぎらついた目で、タカハシを見据えている。

手に張り付いてでもいるのか、金属バットは握ったまま片手で器用に登ってくる。

「ひぃぃぃっ!!」

タカハシは夢中ではしごを登りつめ、足をもつらせながら、給水タンクのふちまで行った。

タカハシは下を見た。はるかしたにぼんやりと地面が見える。

「お前のせいだ…お前のせいだ…」

声が、未来が、追ってくる。

タカハシはポケットの中の時計を握り締めた。

「1週間だ…1週間…戻ってくれ…頼むよ…ぉ」

振り返った。給水タンクの上に、ナカノの手がかかった。白い、悪夢のような手。

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあっ!!!!!」

タカハシは未来の手のひらの上から逃れるように、虚空へ身を躍らせた。






























「ねぇ、つまりこう言うことかしら。」

楽園のような花園にたたずむ少女は、上で自分に木陰をもたらす木を見上げた。

それは、オジギソウのような葉と、先端が赤いフワフワした薄桃色の花を咲かせている。

あの、時計のカバーに刺繍されていた花だ。

「自分の見る夢は他人には見せられないってことなのかしらね。」

シルクのような手触りの花に、少女は手を伸ばす。

「夢は、とても幸せなものなのに、自分しか見ることができないのね…悲しいわ」

少女は花から手を離し、今度は葉に触れた。

「さぁ、もう夜よ。おやすみなさい」

少女が言うと、葉は光に向かって広げるのをやめ、ゆっくりと閉じていった。

まるで、眠りにつくように。
































赤ん坊が、ベットの上で泣き声を上げた。

「まぁ坊や。今までおねんねしてると思ったのに。悪い夢でも見たのかしら。」

母親は、赤ん坊を抱き上げた。そして、赤ん坊の手が握り締められているのに気がつく。

「何を持っているの?お母さんにお見せなさい。」

母親は優しく手のひらを開いた。そこには、フワフワとした薄桃色の花があった。

母親はそれをつまみあげ、観察した。

「これは…ねむの木の花?どうしてこんなものを?」

母親は赤ん坊を見詰めたが、赤ん坊は当然回答することなく無邪気な瞳を母親に向けた。

「まぁいいわ。お昼寝の時間はまだあるのよ。さぁ、おやすみなさい。」

母親は赤ん坊に布団をかけなおし、子守唄を歌う。ほどなくして、赤ん坊は眠りについた。

「楽しい夢が見られますように。」

母親は枕元にさきの花を置くと、部屋をあとにした。








ねむの木の花言葉は、“夢想”。


【了】

 

 

 

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